修道院それは最初のレストラン付きホテル
9世紀から10世紀、修道院は平均すると30~100人の修道僧を抱えていた;12世紀のクリニーに至っては、400人となる。子供の教育、病人や老人の世話、巡礼者や旅人の迎え入れ、精神異常者の世話と役割を分担していた。司教座聖堂参事会では、ヨーロッパ中の修道院関係者が集まり情報を交換し合った;それは、知識の普及にかんする特筆すべきひとつの例である。時には法王が会議にやって来て、重要な政治や慈善に関する機密事項へ意見を求めることもあった。それぞれの修道院は真の意味で魂はもとより、製造・農業活動のセンターであり、社会活動、巨大な財政管理運営の拠点であった。修道院は、中世を通して、経済の牽引役を果たし、修道院長という人たちは当時ヨーロッパを代表する企業家ともいえる。
それぞれ与えられた役割の必要に応じて、僧達は各分野で≪プロ≫にならざるおえなかった:文化、森林開発、庭、果樹園、菜園、畜産、養蜂、技術開発、科学、文学。幾つかの修道院は2000冊の手書き文書を保持した;12世紀の表現にこういうのがある≪本のない修道院は、食料のない砦と同じ≫
これらセンターはよく組織化され、位階制がはっきりして、それぞれの役割が明確に決められていた。修道院の生活では、修道院長はドワイアンと准ドワイアンに補助され、それからプレヴォ、プレシャントゥル、准プレシャントゥル、ガディアン・ド・エグリス、アルマリウス、シルカトゥール、セレリエル、カメリエル、ホテルリ、レフェクトリエル、パネティエル、アンフィルミエル、フレール・バッキュス、レジェン、ジャルディニエル、シャプラン...と続くが、特に興味深いホテルリのところに注目しよう。彼の任務は責任がある、というのも重要人物は取り巻きと一緒に移動するからだ:馬丁隊、従者隊、近衛隊、曲芸団...1人の大司教は馬50頭、司教なら30頭持っていた。訪問、饗応、社交、司教座聖堂参事会の開催は要人向かい入れの特別の管理が必要とされた。
修道院の歴史には幾度かの隆盛と衰退があることがよく知られている。上記後半部の様相を持った修道院は全ての時代に当てはまるものではないと思うし、宗派によって祈祷外の労務も種類が違ってくる。
14世紀アヴィニョンにあった法王庁ではざっと400人からの人間が役職を持って働いていたという。まあ、修道院と法王庁を一概にひとくくりにはできないにしても、法王庁のシステムは当然その世界でひとつの模範であったと考えてもおかしくないだろう、ことにホテルリー部門などは。何しろ法王は14世紀を頂点に、最も力を持っていたそうだ。王侯が法王の処に行って、スタイルを真似したという事はあるにしても、その逆はきいたことがない。まあ、法王庁は法王の活動をスムーズにする為、修道院は聖職者の集団生活をスムーズにする為役職が構成されたとは考えられるけれど。中世に法王になった人物は修道院の経験をしていた人も多かっただろう(調べたわけではないけど、時代的に修道院が力を持っていたから当然と思う)、相互の影響は自然あったと考えられる。
とりあえずアヴィニョンに法王庁があった頃、クレマンス6世あたりだと思うが、構成役職を列記しておく。数字は人数。複は複数。
メートルドテル1/従者複/侍従複/髭剃り係り2/医者複/薬剤師1/宮内官吏1/ろうの親方1/礼拝堂司祭30/コーラス12/礼拝堂係1/法王のざんげを聞く僧1/分配係1/神学者(ドミニカン)1/代理執行人(ドア係)複/ほうき係1/警備隊70/パン係2/ソムリエ2/水係り1/食料品保管係1/料理長1/買い物係1/生簀係1/料理人10/料理助手複/馬丁親方1/厩舎係1/蹄鉄親方1/馬丁複/御者複/厩舎の代表人1/法王の手紙係複/鐘鳴らし1/動物世話係1/庭係複/掃除複/洗濯係(女)1/カタツムリ集め(女)1