(訳文)p11
良いマナーは食卓から
―修業僧は厳粛に誠実に、音を立てないで食べる
―飲む時は両手でコップを持って、音を立てないで飲む。≪鳩のように飲む≫と称される。いかがですか、良い印象でデリケートな様子がうかがえる
―テーブルクロスを汚さない
―パンは両手で割り、パン屑をださない
―塩はナイフの先でとる
―皿に乗ったものは全て食べ、食事をよそっってくれる修道僧には頭を下げて感謝する
―食事の終り、パンくずはナイフや小さなブラシで集める(土曜日に貧しい人々の為にプディングを作る)
―ナイフはパンでぬぐう
―空になったグラスは二本指で拭いてナプキンを掛けておく
―修道院長の合図で修道僧達は食事を止め、テーブルの前に立ち、感謝をこめ、お辞儀をし、静かに退出する
こんなふうに10項が表されている。
ところでこの修道僧達はどこに退出していくのだろう。又礼拝に行くのか? いや、真夜中のノクチュルヌに始まってマチネやロード、プリム、ティエルス、セクストゥ : 彼らにも休む権利はある。そう、彼らは≪昼寝≫に行くのだ、ああこれぞ幸せ! 修道僧達は鐘がノンヌを告げるまで、それは午後3時ぐらいの礼拝だが、それまでそれぞれのベッドで休めるのだ。
13世紀フルーリーのしきたりでは、これがどんなに皆が焦がれたものだったか、呼称にそれが残るが、ロマンチックで優雅なその言い方は : 昼寝をする事を≪地中海風にする≫と言った。しかしそれは一年中というわけではなく、ラモ―の日曜日から9月29日のサン・ミッシェルまでのことである。
ウキウキしてご飯食べちゃだめなんだよね、きっと。生きる作業のひとつ、食べなくてすまされるならその方がいいという考え方なんだ。快楽はすべからく悪。でも善か悪かなんて2元的な考えを深くすると、カタリに行っちゃうナ。
“音を立てない”というフレーズを読んで冗談に「メニューニザルソバハナカッタンダ、コリャ」など考えたけど、スパゲティーが歴史に登場するのは、マルコポーロが中国から麺をイタリアに紹介した後ともいわれる。これがイタリアでフォークの出現を生んだというのもどこかで読んだけど、一方、イタリアでは19世紀ぐらいまで庶民はスパゲティを手で食べたという。指で一本づつスパゲッティをつまんで高く持ち上げ、子供や恋人の口に端から入れてやるというふうだ。で、イタリアの修道院ではメニューにスパゲッティがあるんだろうか? これは、大変興味ある問題! それから、まあそのうち食器の歴史なども辿っていきたい。
グラスを両手で口元に運ぶなど、現在のフランスの大人でする人はいない。小さな子供だけ。しかし、日本ではお茶の茶碗に両手を添えるのがとくに婦人には励行されていると思う。これはやはりゆかしい動作である。
テーブルクロスというのは、「緊張して汚さないようにさせる為に掛けるのかナ」と日頃から考えていた。きっとそうだ。けれど緊張して却ってこぼすという困った現象もある。
パンをテーブルにおいてナイフで切り分けない、不吉だ、などというフランスだけれど、そう、考えてみるとパン屑のせいなんだ。確かにテーブルに屑が散らかる様子は見苦しいし、無駄にもなる。
塩を指で取ると、食べ物に掛けた後に指に付いて残るのは必至、自然その塩を払う別な動作をする。これは、無駄であり、見苦しいわけだ。ひんやりした金属のナイフの先なら、塩にも動作にも無駄がない。
パン屑を集めてプディングを作るというのは、素晴らしい! これが知恵ってヤツ!
コップを洗わないんだネ!? バッチー。「皿をパンで拭う」というのが出てこないところを見ると、皿は洗ったんだよねきっと。これは、ちょっと調べないとわからないけど。そういえば、日本の昔、箱膳の時代、ご飯茶碗は食事の最後にお湯だかお茶を注いでお香々で内側をなでて洗うようにして飲んで、それぞれしまう、というのを聞いた事がある。洗わないんだ。まあ、衛生観念が違うし、水がヒネレバジャーの時代じゃないからね、東西とも。
食べ物に感謝をこめるというのは、素晴らしい思想。しかしこれは、人々が苦労をして飢えを凌ぐ歴史の記憶から来ているものだと思う。しかしこれもいわゆる先進諸国、北半球では第二次世界大戦後、トンと飢えるなどなくなり、ザット60年、人々の記憶が薄れてきている。人は安逸には慣れ易い。そう、チョットそれるけれど、人間のからだというのは、少し充たされない状態でちょうどよく運営される、つまり健康維持できるようになってるらしい。考えてみれば、人間の歴史は空腹である事の方がずっと長かったんだものネ。
しかし、この10項は実に“作法”であること! 日本にキリスト教が渡った頃、当然ヨーロッパでその市場を失ったカトリックの尖兵イエズス会となるが、この厳しい宗派において、ミッションの神父達はきっと修道院の生活を経てやって来たが、筋金入りの修道僧達、細かな日常の動作も端々までつくづくブノワの精神が生きていたに違いない。利休さんを感化しちゃったほどだから。
「もったいないとおもいなさい」だよね。それを“貧しさが前提”というか、“地球に優しい考え方”というか。